著者

cixhamin

文書のライセンス

社会のユーザーから社会の開発者へ

障害者といえば、社会に助けてもらってばかりという印象があるかもしれません。そういった意味では、健常者が親分、障害者が子分みたいな関係になりがちでもあります。障害者は健常者に食わせてもらうだけの存在。障害者は社会のユーザーで終わるのです。そこに完全な満足はないでしょう。どうしても健常者に助けてもらわなければ障害者は生きていくことができないケースが圧倒的に多いのは残念ながら現実です。それはどうしても仕方がないのかもしれません。

しかし、障害者の完全な満足のためには、障害者が必要とするプロダクトやサービスを自分で用意すればいいのです。そのためには健常者と同じように社会を作る側に回る必要があります。それは同時に障害者は健常者から食わせてもらうだけという立場を脱却せねばなりません。障害者自身が社会に出て、プロダクトを作り、サービスを提供して社会に貢献する必要があります。そうすることで実績が認められ、障害者もまた、社会を作る側の一員になれるわけです。障害者は社会のユーザーでは終わらず、社会の開発者になることができます。社会のユーザーで終わりたくない障害者は多いと思います。しかし社会の開発者になれる障害者はとても少ないのが現実です。

GNUプロジェクト

IT業界にはGNUプロジェクトの文化(自由ソフトウェア運動)というのがあります。大きなベンダーがソフトウェアの実行の自由や配布の自由を制限する風潮に対抗してリチャード・M・ストールマンが立ち上がったプロジェクトです。GNUプロジェクトはFSF(Free Software Foundation)が運営しています。GNUプロジェクトではソフトウェアの実行の自由、ソースコードを読む自由、改変する自由をライセンス(GPL)で保証します。こうすることによって特定のベンダーにソフトウェアの自由が制限されることを防ぐのです。しかしGNUではプロジェクトではソフトウェアの実行も改変もソースコードを読むのも自己責任です。ソフトウェアに何かしらの問題があっても、修正してくれることを保証するものではありません。修正してくれる人がいるかもしれませんが、もし修正する人がいなければ、使わないか、我慢して使うか、それでも我慢ならない、どうしてもソフトウェアを使いたいなら、ソースコードを読んで自分で修正する必要があります。GNUプロジェクトの文化ではソフトウェアを使う人はただの受動的なユーザーであることを否定します。ソフトウェアを使う人がときに開発者であることも、求められるのです。

自由への脱却

障害者が健常者に食わせてもらうだけの立場から脱却したい=社会の開発者として参加したい。そのためには障害者には主体性が求められます。能動的に動く、自分で選び、その責任は自分で負うスタンス=自由が必要なのです。障害者が社会参加したいと考えるなら、主体性を持つことが一番最初に求められるのです。これを理解していない障害者は非常に多いと思います。そして実際に就労定着を成し遂げ、社会に参加できた障害者は必ずといっていいほど主体性を持っているのです。主体性を持って動き、必要な情報や技術、ノウハウを自分から集めていき、それを学んで知恵として体得できる人だけが、最終的に社会参加=社会の開発者になれるのです。受け身の姿勢で待っていても何も変わりません。必要なのは自ら動くことです。